昭和40年9月12日 夜の御理解



朝起きると同時から、夜の御祈念も、こんなに遅くならなければならない程に、もう、ほんとに、充実したお使い回しを頂いた一日であった。夕方まで、二百六十枚くらいお取次ぎさして頂いて、もう、ほんとに、息の次ぎようもない、やれやれ、もうこれで済んだと思うて、着物を脱がせて頂いておると、また、こうして着物を着て、御神前に出らなければならないような、お参りが、今日は多かったんですねえ。んー、その中に、中野さんと、佐田さんところのその、両家の、合同の慰霊祭が、ございました。それに前後して、中島、松岡さんところの、赤ちゃんの初参りがあり、それからその、慰霊祭が済んでおりましたら、あの、熊谷さんところの、お孫さんが、初参りがあってございました。もう、本当に、何時から何時までに参ってきて下さいよとこう、時間が一緒になったらいけんから、と言うてあるようにその、きちっとした事でしたけれどね。それに、美登里会があり、えー、今日は伊万里から、それから熊本からも、次々とお参りがありまして、とうとう、熊本からのは、今日で24日続いたわけですね。ほんとに、何かあるなあと、思わなければおられませんですねえ。ほんとにこの、今朝の直御理解じゃないですけれども、ほんとにこの、生きた光というか、丁度、金光様が朝のお出ましに、お提灯を先頭に、そのお提灯に導かれて、お出ましが、ご出仕があるように、ほんとにその方達の、誰にしても同じなんですけれども、そういう一つの光に導かれて、お参りして来ておりなさるなあという気が致します。これは、熊本の方だけのことではない。皆さんでもやっぱりそうです。「ね」。本当に、たたずまいの中に、神秘的なものが、例えば、ありますよね。私、先日、梅林寺さんの石庭を見に行きましたから、あれは、もう、ほんとに何とはなしに、雰囲気だけでも、素晴らしいんですけれども、さあ、生きた光の導きというものがないでしょうが。だから、もうそれこそ、ひっそり閑としておるわけなんですね。ただ、お坊さんたちの修行場、という感じでありますけれども、それはそうと、椛目の場合はもう、二階も下も、もうほんとにテンヤワンヤでございました。それが、なにか、それであっても、一糸乱れてないという感じですね。ほんとこう、駅の、大きな駅に列車がこう、入ってくるのが、間違いなく入ってくるような感じですよね。その中に、そのう、お取次ぎさせて頂いてから、まあ、色々感じた事なんですけれどね。「んん」。中野さんと佐田さんところの、御霊様のお祭りをさせて頂いて、まあ、今日という日を頂いて、された訳なんですけれども、なるほど、今日でなからなきゃいけなかったなと思うんですねえ。まあ、あのう、お知らせを頂きますのにですね。もう、なんというですか、あの、もう、生か死か、もう、へとへとというところですね、御霊様が。今日、救いじゃなかったら、もう、明日、死になさるのかもしれんというごたる、感じの御霊様達なんですね。それで、私あのう、御神前に出させて頂いたら、もう、私、本当に有難いと思うことは、私がねえ、そういう神様の働きも、そして、御霊様の世界も、このう、信じて御霊様の奉仕が出来るということですね。一番私が有難いと思わせていただくことは。御神前にでらせて頂いてから、神様、前々からお取次ぎを頂いて、お話をさせて頂いておりました、佐田家、中野家の、両家の御霊の慰霊祭を、ささやかながら奉仕をさせて頂きますと。親戚の誰彼も、お参りさせて頂いておりますと。只今から、お取次ぎをさせて頂きます、奉仕をさせて頂きますということを、もうほんとにあの、前々から御願いしておったことを、神様が、ご準備下さってある事を、確信してお礼が申し上げれるということです。有難い。「ね」、如何にキラ星のような、装束をつけた先生達が、十人、例えば、奉仕をされたとところでですたい、「ね」、あの世があるもんかとか、地獄極楽なんかその、ほんとに物語のようだ、物語のようにしか思うておられない方達が、私は、奉仕されても、神様には通わないと思うですね。私が、確信し、それを信じて、そして、このごろから、お手数をかけてすみませんとこう、実感してこう、私が、お礼が申し上げられるのだと。そして只今からと、こう、御願いが出来れるということが有難い。それにです、それにお答え下さる様に、いわば、打てば響くようにです、あの、こう、なんか濁った水の中からです、魚をこう、掬い出してから、こちらの、道一つこっちの、綺麗な、(しんつねの?)方に、移しておられるところを頂くんですよ。もう、こんなに御霊様、言うならアップアップしているような状態だったんですよね。それを、今日のそのことによって、まあ、おかげが頂けたと。ほんとに、時間的にという方が、正確なほどにです、間違いないお繰り合わせを頂いて、今日と定めておって下さったということです。「ね」。ま、そんな意味で、ま、有難い神様のお祭りを奉仕させて頂いて、そして、御直合をあげて、ほんなら、おかげを頂きまして、有難うございましたというて、帰られるのと、熊谷さんたちが、四人連れでお参りになったのが一緒でございました。五人連れでした。それから、私、またあのう、(あわれがおどっておりましたから、)また羽織袴をつけましてから、ええ、いつもの様に、お礼を申させてもらい、御祈念をさせて頂きました。ところがどういうものですかねえ、どんなに御願いしても、御願いしてもその、何にも頂かないんですね。もう、私が今日、へとへとに疲れておるものですから、心が、何か生き生きしたものがないから、神様が受けて下さらんのだろうかと、私が思うたんです。あんまりその、時間かかりますから。そしたら神様がね、「抱いてみ」と頂きました。やはりその、連れてきておる赤ん坊を、抱いてみと、こういうことなんですね。それから私すし、すぐ、神様に対して私と、神様との間に、一つのお話し合いなら、お話し合いというか、その、御願いが聞き届けられてから必ず、その、赤ん坊を御神前に供えるんですよね。けども、今日はそれが、何にもないんですよね。けど、神様から、抱いてみと頂いたから、私が、すぐ、赤ん坊をこっち連れておいでと言うてから、もう、抱かせて頂いたとたんですね、もう、どうにも出来ん、止めどもない感激を、覚えるんです。手が震えるような感激なんです。はあー、もう、こう、「負うた子よりも、抱いた子」といったような意味のことを申しますがね、この、抱いてみるという事ですね。この、情が通うというですかねえ。そこんにきにあるのを見てからよりも、抱いたほうが、もう、どのくらい、無言の中に、何かが通うものはないということです。「ね」。そういう意味でです、たとえば、そんなら皆さんの、お取次ぎを願われる、赤裸々なお願いというようなものがです。いかに、私の心の中に、飛び込んでくるような、御願いでなからなければならない、ということが分かるですね。もう、大概こげなこつまで申し上げたら、お恥ずかしかけんちいうごたる風で、その、遠いところからこの、御願いしておるといったようなことでは、実感がです、来ないのです。伝わってこないのです。いかに、一切が、良いも悪いも、先生の懐の中に飛び込んで行くという、そういうようなものがです、やはりその、大事だなあということ。子供を持っている手が天使よと、こう仰るが、なるほどこの、抱いてみてから、点が出来るですね。自分の子とか、自分の孫とかという実感が。抱いてみてこれに始めて伝わってくるんですね。ま、そんな、色々な、お取次ぎをさせて頂いたんですけれども、そういう中からですね、ほんとに神様、もうフルに私をお使いくださるということは、神様が椛目の広前のために、フルにお働き下さっておるんだと。現在、そういうような、お働きを頂いておるんであるから、これは、私共でも、疲れたの、きつかのといわずに、ほんとに、十分お使い回しをいただかにゃならないなと、いうふうに感じるんです。「ね」。夕方、古谷さんと、委員長の秋永先生、それから高橋さんが見えられて、また、あの、色々打ち合わせがありました中に、今度、客殿のほうに、湯殿がないのが、どうもいけないなということに気付かれて、湯殿をもう一つこう、作ったらどうだろうかという、この、これだけ広いお広前ですから、大体、三つはなからなきゃいけないと言うんですね。湯殿が。けども、まあ、三つというわけにもいけんから、ま、家庭のもんが入れるもの、それから、客殿の、いわゆるお客さん専用の、お風呂が、是非必要であろうといったような、話し合いが、その、検討されておりましたから、もう、九時半だったでしょうかね、御祈念さしていただきました。それからお風呂入ってから、御祈念させて頂いてから、そんなふうで、今日一日、お使い回しを、頂いたんですけれども、本当に、お使い回し頂いておるということは、使うておられる神様も、やっぱり、お骨折りだと感じるんですね。どうぞ、おかげいただかにゃ、なりませんね。